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アウトサイダー・アートという言葉は、もともとフランスの画家ジャン・デュビュッフェがつくったフランス語「アール・ブリュット(Art
Brut)」を、イギリスの著述家ロジャー・カーディナルが英語に置き換えたものである(1972年に初めて彼の著作であらわした)
それでは、ジャン・デュビュッフェのいうアール・ブリュットとはどういう意味だったか?
デュビュッフェが中心となって1949年に開催した「文化的芸術よりも、生(き)の芸術を」のパンフレットによると、アール・ブリュット(生の芸術)は、芸術的訓練や芸術家として受け入れた知識に汚されていない、古典芸術や流行のパターンを借りるのでない、創造性の源泉からほとばしる真に自発的な表現、を意味していた。つまり、アール・ブリュットの条件は次の3点にまとめられる。
(1)背景:過去に芸術家としての訓練を受けていないこと。
(2)創作動機:芸術家としての名声を得ることでなく、あくまでも自発的であること (他者への公開を目的としなければ、さらに望ましい)。
(3)創作手法:創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影響を受けていないこと。
ご注意いただきたいのは、デュビュッフェが行ったアール・ブリュットの定義には、「知的障害者が描いた」などとはどこにも書かれていないことだ。アウトサイダー・アートは知的障害者の作った作品だと思っている人は今でも多いが、決して彼はそのようなことを言ってはいない。
ただ、精神病院内におけるアートセラピーという背景事情があり、3つの条件を満たしたうえでデュビュッフェらに見出された作者の多くが「結果的に」知的障害者だったことは、事実として認めなければならない。
誤解を煽るようだが、ここでアール・ブリュットの前史である、芸術と知的障害者の関係史を振り返ってみよう。
近代化が進むなかで精神病者の数は著しく増加し、19世紀に精神医学が発達した。イタリアの精神科医チェザーレ・ロンブローゾは、初めて精神病患者の作品の大規模な収集をおこない、人間の精神活動の特徴的な表現といえる造形芸術を、精神病の謎を解く手がかりとして用いた。 『狂気と天才』(1864)の中で、彼は「天才と呼ばれる芸術家の多くは、実は身体的・精神的障害者なのだ」と述べている。
当時欧州を席巻していたたロマン主義は、芸術と狂気の関係に大いに関心を抱いた。イギリスではリチャード・ダッドという精神に異常をきたして実の父親を殺した画家が登場してセンセーションを呼んだ。
パリでは印象派が花を開く一方、暗鬱な象徴派がロマン主義を引き継いだ。 19世紀後半から20世紀初頭にかけて近代芸術は加速化し、前衛化の道をたどるようになる。行き詰まり感をおぼえた芸術家や批評家たちは、新しい動きを目指して非ヨーロッパ文化圏や未開人の造形美術、さらには子供たちや精神病者のアート作品に目を向けはじめた。ゴーギャンは南の島タヒチに向かい、ピカソはアフリカ黒人の木彫に多大な関心を寄せ、『青騎士』の画家たちは子供たちや精神病者の絵に魅せられた。
ロンブローゾ以降も精神医学からのアプローチは続いた。1888-89年には米国人のウィリアム・ノイスが精神病者の絵画に関する論文をアメリカン・ジャーナル・オブ・サイコロジーに掲載。1900年にはフランスのテオドール・フルールノワ博士が霊媒エレーヌ・スミスの実例研究『インド亜大陸から火星まで』を発表する。1906年にはドイツのフリッツ・モールが『精神病者の絵画』を出版。その他にも「無意識」の発見を行い精神分析学を確立したジグムント・フロイトが、精神病者として見たわけではないが、レオナルド・ダ・ヴィンチ論を発表している。
これらの精神医学からのアプローチは、もっぱらロンブローゾの問題意識を引き継ぎ、「天才」の精神病理学的研究として進展し、パトグラフィー―Pathographie(病跡学)――ドイツの精神科医P.J.メビウスが1907年の論文で初めて用いた――を形成する。天才の病理学的研究としてのパトグラフィーは、20年代末のクレッチマーとランゲ-アイヒバウムの著作によって頂点に達するが、その一方で、創造行為の過程を病理学的に研究するアプローチがK.ヤスパースによって提唱される。ヤスパースは統合失調症の病的過程がときに稀に見る創造行為をもたらしうると説いた。
第1次大戦が終わり平和が戻った20年代初頭、ヤスパースの流れを汲んで、ヴァルター・モルゲンターラー医師の『芸術家としての精神病者』(1921)がスイスで、ハンス・プリンツホルンの『精神病者の芸術性』(1922)がドイツで、ジャン・ヴァンションの『芸術と狂気』(1924)がフランスで、それぞれ出版される。これら精神科医や精神分析家の論文は、パリのアンドレ・ブルトンらによる「シュルレアリスム宣言」(1924)に大変大きな影響を与えた。
最初に述べたように、「アール・ブリュット」はデュビュッフェによって「厳密に」定義された。そのため、「アール・ブリュット」に準ずる「Neuve
Invention」というカテゴリーまで考案された。(日本でもおなじみのゾンネンシュターンはNeuve
Inventionに含まれる。コルビュジエの従兄弟ルイ・ステーは美術教育を受けていたため、ガストン・シェサックはデュビュッフェを剽窃よばわりしたため(?)、「妙な知恵がついた」と言われてNeuve
Invention送りとなった)。
ロジャー・カーディナルは、1981年ロンドン・ヘイワード・ギャラリーにおけるアウトサイダーアート展の企画をおこなったが、この際アール・ブリュットについて親しみのない英国観衆の事情を考慮し、単純化をはかるために「Neuve
Invention」に属する作品もアウトサイダー・アートとして展示した。アウトサイダー(outsider)という英語はふつう「部外者」や「門外漢」、「シロウト」を表すが、ほかにも「社会から孤立した者」「はみ出し者」の意味がある。C・ウィルソン(Colin
Wilson, 1931〜)は25歳のときに書いた処女評論『アウトサイダー』で何人かの思想家や芸術家、作家を取り上げ、社会規範から逸脱した存在――アウトサイダーの実存的生きざまを描いて大ベストセラー作家の地位を築いた。カーディナルは「正統な美術教育を受けていない」という点や、「社会から孤立した人たち」、「幻視(ヴィジョン)を追い求める人たち」によるアート、という点を重視し、当時すでによく知られていたC・ウィルソンのいう「アウトサイダー」のニュアンスを込めてこの言葉を充てたのだ、と述べている。
ただ、 このことがきっかけで定義は曖昧になっていく。その後「アウトサイダー・アート」という言葉は米国にも輸出され、アートビジネスを通して広く使われていった。そのため、オリジナルの「アール・ブリュット」の厳密な意味合いは失われていった。アートの世界ではわりと英語圏でもフランス語がそのまま用いられるのだが、定義が厳密な言葉より曖昧な言葉のほうが普及しやすい、ということがいえるのかもしれない。そうしてますます混迷を極めていった。現代の米国では「アウトサイダー・アート」と「コンテンポラリー・フォークアート」はほとんど同義語となっている。ナイーブアートやセルフトートとの区別も曖昧なままである。
こういった現状を踏まえて、ロジャー・カーディナルはRAW
VISIONの37号(2001年冬)で、「アウトサイダー・アート」はあくまでも「アール・ブリュット」の英訳語であるとことわった上で、新たな総称として「マージナル・アート」という新しい造語を提唱したが、混乱に拍車をかけるだけになりそうだ。
定義の問題についてこれ以上あまりグダグダ言うつもりはない。ただ、これだけは言っておこう。アウトサイダー・アート、それは芸術(と美学)と精神医学が交錯する、スリリングなボーダーランドなのだ。
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