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18世紀末に文学者フリードリッヒ・シュレーゲルは、古典的なギリシア様式から外れた詩人の作品を「頽廃的(Entartung)」と評した。イタリアの精神科医のチェザーレ・ロンブローゾは1864年『狂気と天才』の中で、天才と呼ばれる芸術家の多くは実は身体的・精神的障害者なのだ、と述べており、ユダヤ系の評論家マックス・モルダウも印象画は錯乱状態を描いており、頽廃的だと評した。
20世紀初頭に生まれたバウハウスは、ヴァシリー・カンディンスキー、パウル・クレー、オスカー・シュレマーが教授となったことでも知られるが、そのリベラルな傾向から常に保守的な人々の攻撃を浴びた。ローゼンベルクが1927年に創設した「ドイツ文化のための闘争同盟」は、「バウハウスはボルシェヴィキの世界革命の道具」としてこれを激しく非難した。
1929年12月、ナチスはチューリンゲン州議会選挙で勝利し、連立交渉の末、ナチスの擁立したヴィルヘルム・フリックは、1930年1月23日の州議会で州の内務・国民教育相となった。これはナチスが州政府の閣僚になった初のケースである。彼は早速、国立ワイマール建築・美術・工芸大学を改組して「ワイマール総合芸術教育施設」とし、シュルツェ・ナウムブルクをその長官に任命した。また、フリックはナウムブルクとワイマルの場内美術館を視察した後、美術館内の近代美術作品70点を取り外せ、と命じた。該当作品の多くはグロピウスが入手したもので、オットー・ディックス、カンディンスキー、ココシュカ、ノルデ、シュレンマーの作品が含まれていた。理由は「これらは北方的=ドイツ的な本質と共通するところがなく、劣等人種ばかり描いている」とのことだった。
1931年4月、フリックはいったん退任させられたが、33年3月にナチスがドイツ全国で政権掌握したことによって、内相に就任する。
政権を獲得して間もないナチス政府は、プロイセン芸術院の文芸部門の全会員に対して、「歴史的状況の変化を認めた上で、貴殿はなおもプロイセン芸術院に身柄を預ける用意があるか?回答せよ」との書簡を出した。トーマス・マンら数名は自発的に退会、強制的に退会させられた者は十数名にのぼった。5月には、ナチスに共鳴した学生がゲッペルズ宣伝相の呼びかけに応じて「非ドイツ的著作物の焚刑」をおこなった。
焚書処置が海外世論の猛烈な非難を浴びたため、ナチスによる造形美術部門への措置は、慎重に時間をかけて行われた。時間がかかったのは、美術に関してナチス政権内部における「有害無害」の統一見解がなかなか得られなかったことも理由の一つだ。(たとえばゲッペルズは当初、ノルデを「北方的」として、ムンク同様に愛していたし、ブリュッケ画家の擁護にもあたった。) 政府は33年5月に芸術院造形美術部門会員について改組選挙の是非をめぐる意見伺いの書簡を、エミール・ノルデやルートヴィッヒ・キルヒナー、オットー・ディックスなど九名に送りつけた。
ナチスの台頭により、近代美術を弾劾する美術展が各地で行われた。たとえばバーデン地方では、ハンス・アドルフ・ビューラーなる無名の国粋的志向の無名画家がその志向のみで右翼に称えられて美術学校校長にまでのぼりつめた。ナチスの支持者は1933年にバーデン・バーデンで開催予定だった「分離派美術展」を阻止し、カールスルーエのバーデン美術館では、超インフレ時代に購入された表現主義諸派の作品をライヒスマルク換算せず超インフレ時代の天文学的数字そのままの値札を併記する展示会を開催、「働くドイツ民衆の税金がかくも無駄づかいされた」と注記をつけた。その後もシュトットガルト、ミュンヘン、ニュルンベルク、デッサウ、ドレスデンなどで同じようなプレ『頽廃芸術展』ともいうべき芸術展が次々に行われた。
近代絵画に好意的だった美術館関係者はことごとく辞任に追い込まれ、ドイツ各地で美術教師をつとめていた画家たち(デュッセルドルフのクレー、ドレスデンのオットー・ディックス、ベルリンのカールホーファー)が罷免された。
これらはすべて「ドイツ国民よ、われらに4年の時を与えよ」という謳い文句で繰り広げられたナチスの4ヵ年計画の一環として進められた。ナチス宣伝省は4年後(1937年)に向けて近代美術を誹謗するキャンペーンを開始する。ヴォルフガング・ヴィルリッヒとヴァルター・ハンゼンがオルガナイザーとして選ばれ、ドイツ各地の美術館の収蔵された「問題の多い」近代絵画を徹底的に調べ上げるなど準備活動が開始された。
1937年6月末、ゲッペルズの任命によりアドルフ・ツィーグラーが代表になって「頽廃芸術展」の準備委員会が開かれる。画家のハンス・シュヴァイツァーや「フェルキッシュ・ベーオバハター」紙の美術評論家フランツ・ホフマンなど5名がメンバーとなったが、主導権を握っていたのはこれまで準備活動を進めてきたヴィルリッヒであった。彼のリストに基づいて、各美術館から美術作品が即座に押収され、委員会が設置されて4週間も立たぬうちにミュンヘンの「頽廃芸術展」が開催されたのである。
「頽廃芸術展」は、1937年7月19日から11月末まで開催された。ミュンヘンに完成した「ドイツ芸術の家」のお披露目として開かれた「大ドイツ芸術展」とほぼ同時期である。
「晒し者として」展示されたのはエミール・ノルデの『キリストの生涯』他48点やオスカー・ココシュカ、「ブリュッケ」の表現主義絵画、マックス・ベックマン、パウル・クレー、オスカー・シュレマー、カンディンスキー、オットー・ディックスなど。バルラッハやキルヒナーの彫刻も含まれた。モンドリアンやムンクなどの作品も展示されたが、外国の抗議を受けて翌年のベルリン展からは外された。4ヶ月にわたって催された「頽廃芸術展」は、入場者総数200万人を越える大盛況で、一方の「大ドイツ芸術展」は会期も短く、入場者数は3分の1に満たなかった。
「頽廃芸術展」は翌年1938年から1941年まで、内容の一部を差し替えて、ベルリン、ライプチヒ、デュッセルドルフ、ザルツブルク、ハンブルク、ワイマール、ウィーン、フランクフルトなど、ドイツおよびオーストリアの主要都市を巡回した。なお、ベルリン展からは頽廃芸術は精神病者の描く絵画とそっくりだという主張を強調するために、ハイデルベルクにあるプリンツホルンのコレクションを並べて展示した。(親ナチの精神科医でT4作戦にも積極的に加わったカール・シュナイダーの提供による)。
参考文献: 『ヒトラーと退廃芸術―「退廃芸術展」と「大ドイツ芸術展」 』 関楠生 河出書房新社
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