村上龍は『ラッフルズホテル』『イビサ』『ライン』ほか多くの作品で精神疾患をわずらう女を描いており、狂気の描写には定評がある。ひょっとすると精神科医の友人がいて、興味深い症例記録をひそかに入手し、それを模倣することで狂気の表現を磨いたのではないかと勘ぐってしまうほど巧い。
狂気とSMと文学の結びつきは何も村上龍のオリジナルな方向性でもなければ現代的なテーマでもない。それは、マルキ・ド・サドやオスカー・ワイルドの時代から引き継がれた近代文学の伝統のひとつである(あるいはミシェル・フーコーに倣って、『ドン・キホーテ』までさかのぼっても良いかもしれない)。
狂気は小説が登場した19世紀の時代から現代まで、ロマン主義の関心の対象であり続けてきた。優れた狂気の表現には、意識の下に蠢いている思考の原初的な形態が鮮明に見られる。
ウニカ・チュルンの『ジャスミン男』を読むと、脳の奥底に秘められた「ウル(原始)思考」的なものが実に明瞭に表現されていることに気づく。それは節度ある感情と欲望、及び合理的な判断をもとにして生きてきたつもりの自分が、いかに脆く儚い存在なのかをあらためて思い知らされる瞬間である。
『ジャスミンおとこ』から興味深い部分を抜粋してみよう。
何億という赤血球が体からなくなるとき、体がアレルギーのために無数のしみで覆われるとき、貧血病者の手記にこう記す。「誰かがやって来てわたしの中を歩きまわる。わたしの中に住みついてしまう。外部の、牛の唸っている黒い土地に、その誰かは居るふりをしている。この外部の眺めがわたしのまわりに環になって締まって来る。内部からはその誰かに歩きまわられ、外部からはその誰かにとりまかれる、というのが私の新しい身の上だ。これはすてきだ。」
夜に、美しいが危険な生き物の夢を見る。乙女であってまた蛇であるもの ――長い髪をして。このものはまわりの世界を破壊しょうとしている。それで注意深く手術をして、破壊をしでかしそうなものを皆取り去ってしまう。脳を取り、心臓を取り、血を取り、舌を取るが、何よりもまずその両眼を取ってしまう。ところが髪の毛を取るのを忘れる。それが間違いだった。というのは、その生き物は、盲で、貧血で、ものが言えないが、たいへんなカを身につけてしまって、そのまわりの者はその毒手を免れるには逃げるしかない。これはいったいどういう意味なのだろう。
以上、『ジャスミンおとこ』 ウニカ・チェルン著 西丸四方訳より抜粋
ちなみに『ジャスミンおとこ』を訳した西丸四方は、東条英機の後頭部をぽかりと叩いた大川周明を担当した精神科医で、アウトサイダー・アートに通底する強迫観念に溢れる作品を数多くつくった世界的アーチスト、草間彌生の初期紹介者としても有名である。
ハンス・ベルメールによるウニカ・チュルンの緊縛写真は以下の作品中に見られる。
なお、狂気と近代・現代文学との結びつきについて、哲学者ミシェル・フーコーが興味深いことを述べています。
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