マリー・ヴィーグマン (Mary Wigman)
ハノーヴァー(独) 1886年生 ―  1973年没

 ルドルフ・ラーバンとともにドイツのノイエ・タンツにおいて重要な役割を果たした表現主義の舞踏家。
一時ハンス・プリンツホルンやヘルベルト・ビンスヴァンガー(チューリッヒの精神科医の名門ビンスヴァンガー家の一員)と恋愛関係にあった。


【略歴】
1886年、ハノーヴァーの裕福な家庭に生まれる。
1910年、両親の意に反してダルクローズのダンス学校に入る。
1912年、エミール・ノルデの『キャンドル・ダンサーズ』で描かれるダンサーのモデルとなる。ダルクローズの研究所を去り、1年近くローマで過ごす。 1913年、ノルデに勧められてアスコナへ行き、ルドルフ・ラーバンの弟子として「生活芸術学校」の教師となる。
1916年、フーゴ・バルやトリスタン・ツァラらチューリッヒ・ダダに接近(ゾフィー・トイバーと親交)。ラーバン・ダンサーズの一員としてダダの夕べで『交霊ダンス』を披露。その他ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の朗謡にあわせて踊ることもあった。 1917年、8月15−25日の間、テオドール・ロイスの東方聖堂騎士団(OTO)がアスコナのモンテ・ヴェリタで「反国家会議」を開催。ラーバン・ダンサーズの一員として太陽のダンスを上演。
1919年、ギムナジウムの教師ヴィル・ゴールマン(パウル・クレーを世に出すことに尽力したとも言われる)の勧めにより、アスコナを離れドレスデンに移住、ダンス教室を開く。1922年頃?、ドレスデン郊外にあるヴァイサー・ヒルシュ施療院でカウンセラーとして働いていたハンス・プリンツホルンと知り合い、同棲する。(22年に出版されたばかりの『精神病者の芸術性』をハンス・アルプに紹介したのはヴィーグマンの友人ゾフィー・トイバー(アルプの妻)。
1920年代、いくつもの舞踏講演を行い、ノイエ・タンツの第1人者となる。ナチス映画の監督レニー・リーフェンシュタールは一時彼女の弟子だった。ヴィーグマン同様にデモニッシュなるものに関心を抱いた神学者のパウル・ティリッヒ夫婦はヴィーグマンを賞賛し「ダンスと宗教」なるエッセイを書いている。
1927年、マクデブルクでラーバン、パブロワ、オスカー・シュレマーらとダンス会議を主宰。
1936年、ナチス政権下のベルリン・オリンピックの祝典で舞踏劇『死者の嘆き』を上演。
1954年、Movement Guild Magazineに「わが師ラーマン」を執筆。
1956年、Zivier, "Mary Wigman"
1966年、"The language of Dance"出版
     (『マリー・ヴィーグマン 舞踏の表現』河井富美恵・林悦子訳大修館(1976年)

 参考文献:『真理の山―アスコーナ対抗文化年代記』 マーチン・グリーン(Martin Green)著
 マリー・ヴィーグマンの自伝ではないので、彼女の戦後の活動については詳しくない。

  マリー・ヴィーグマンについてもっと知りたい人は、以下の本を読むと良いでしょう。

  『Mary Wigman.』 Gabriele Fritsch-Vivie著

  『Mary Wigman. Ein Vermaechtnis 』 Walter Sorell著

 

 

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