マリー・ヴィグマン (Mary Wigman)
ハノーヴァー(独) 1886年生 ―  1973年没

 ルドルフ・ラバンとともにドイツのノイエ・タンツにおいて重要な役割を果たした表現主義の舞踏家。モダンダンスの歴史を語る上では欠かせない存在で、ハンス・プリンツホルンより遥かに知名度が高い。一時ハンス・プリンツホルンやヘルベルト・ビンスヴァンガー(チューリッヒの精神科医の名門ビンスヴァンガー家の一員)と恋愛関係にあった。


【略歴】
1886年11月13日、ハノーヴァーに生まれる。父親はカウフマン・ハインリッヒ・ヴィグマンという自転車・ミシンの製造・販売などを手がける裕福な商人。母の名はアマリエといい、マリーは二人の長女として生まれる。
マリー9歳のとき、父親が死亡。
1898年、母アマリエ、亡夫カウフマンの双子の兄弟と再婚。
その後、大学に入るためのギムナジウム(当時、ハノーヴァーに女性のためのギムナジウム[高等学校]が初めて開校した)への入学を希望するが、母親と継父に反対され、英国の寄宿学校に入る。
1908年、ウィーゼンタール姉妹の公演を見てダンスに目覚める。
1910年、23歳のとき、音楽教育学者ジャック・ダルクローズがドレスデン近郊のヘレラウに開いたダンス学校(リトミック教育施設)に入学。なお、ヘレラウは、教育改革や住民改良運動、自由身体文化運動(ヌーディズム運動)などの基礎となった田園都市運動の影響で生まれたドイツ最初の田園都市だった。
1912年、エミール・ノルデの『キャンドル・ダンサーズ』で描かれるダンサーのモデルとなる。ダルクローズの研究所を去り、1年近くローマで過ごす。 
1913年、ノルデに勧められ、イタリア語圏スイスのアスコナへ行き、ルドルフ・ラーバンがモンテ・ヴェリタでおこなった夏期講習に参加。彼の弟子として「生活芸術学校」の教師となる。当時のアスコナは神智学関係者などが暮らす、神秘主義の影響の濃いアーティスト・コロニーだった。
1914年、ラバン・スクールの発表会で、創作ダンス『ヘクセンタンツT(魔女の踊り)』『レント』を踊る。
1916年、フーゴ・バルやトリスタン・ツァラらチューリッヒ・ダダに接近(ゾフィー・トイバーと親交)。ラーバン・ダンサーズの一員としてダダの夕べで『交霊ダンス』を披露。その他ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の朗謡にあわせて踊ることもあった。 
1917年、8月15-25日の間、テオドール・ロイスの東方聖堂騎士団(OTO)がアスコナのモンテ・ヴェリタで「反国家会議」を開催。本会議の催しの一つとして、ラバンがゾンネンフェスト(太陽の祝祭)なる舞踊劇を企画、マリーはラーバン・ダンサーズの一員として太陽のダンスを上演。11月、ソロ・コンサート『エクスタティッシュ・タンツ』を開催。
1918年〜19年にかけて、結核のためダヴォスに滞在。回復後におこなった同地での公演で人気を博する。

1919年、ギムナジウムの教師ヴィル・ゴールマン(パウル・クレーを世に出すことに尽力したとも言われる)の勧めにより、アスコナを離れドレスデンに移住。



1920年  ドレスデンにダンス教室を開く。舞踊史家のスーザン・マニング(Susan Manning)が著した『Ecstasy and the Demon』によると「20年代はヴィグマンの生涯の偉大なる10年である。1920年から30年にかけて、このコレオグラファーは70以上の新しいソロ・ダンスと10以上のグループ・ダンスをつくった」(訳:海野弘)。1920年代、ヴィグマンの学校経営は大成功をおさめ、20年代末までに、ドレスデン校に300人以上、ベルリンに600人以上、分校合計で1500人以上の生徒が在籍していた。ナチス映画の監督レニー・リーフェンシュタールは一時彼女の弟子だった。ヴィーグマン同様にデモニッシュなるものに関心を抱いた神学者のパウル・ティリッヒ夫婦はヴィーグマンを賞賛し「ダンスと宗教」なるエッセイを書いている。
1922年、ドレスデン郊外にあるヴァイサー・ヒルシュ施療院でカウンセラーして働いていたハンス・プリンツホルンと知り合い、同棲する。(22年に出版されたばかりの『精神病者の芸術性』をハンス・アルプに紹介したのはヴィーグマンの友人ゾフィー・トイバー(アルプの妻)。
1927年、この頃、ラバン派とヴィグマン派が対立。マクデブルクでラバンを中心に第1回ダンサー会議が開かれるが、ヴィグマンは招待されず。ラバンは本会議の出席者でテンツァーブント(ダンサー組合)を結成。
1928年、 ヴィグマンが、ラバンのテンツァーブントに対抗してタンツゲマインシャフトを結成。両派の共催でエッセンにて第2回ダンス会議を開催。
1929年、エッセイ『女性の舞踏芸術』刊行。
1930年、ミュンヒェンにて第3回ダンサー大会。ヴィグマンはダンススクールの学生により合唱舞踊団を構成。20年代は女性だけのグループダンスを実施していたが、ここで初めて男性を登場させる。
1930年11月〜33年3月にかけて3回にわたる渡米、170回以上の公演をおこない、アメリカのモダンダンスに大きな影響を与える。
1934年、ナチ政権下において、ゲッペルズの指示によりラバンが組織したドイツ・ダンス・フェスティバルに出席。
1935年、第2回 ドイツ・ダンス・フェスティバルで『舞踊賛歌』を発表。
1936年、ベルリン・オリンピックでオリンピッシュ・ユーゲントによるマスゲームの振り付けに協力。また、祝典では舞踏劇『死者の嘆き』を上演。
1937年、ミュンヒェンにおける第1回ドイツ美術展の開会セレモニーの振付を依頼される。アルベルト・タルホフの台本は、ワイマールの頽廃芸術が第3帝国のパレードを追い出されるという内容だった。その後、ヴィグマンはダンススクールの経営とソロダンスに専念。
1942年、ナチ政権により、舞台からの引退を命じられる。



1945年、ベルリンの西郊外ウィルマードルフの市長に招かれ、同地にダンス・スクールを移転。ソ連地区の社会主義政策に協力。
1949年、ドイツ民主主義共和国(東ドイツ)がヴィグマンの学校を認めず、西ベルリンに亡命。
1953年、西ベルリンのヘッベル劇場で『コリッシュ・ストゥディエンU』を発表。代役として42年以来はじめて舞台に立つ。
1954年、Movement Guild Magazineに「わが師ラーマン」を執筆。
1956年、Zivier, "Mary Wigman"
1957年、ベルリン市立オペラから西ベルリン芸術祭のプログラムのひとつとして、ストラヴィンスキー『春の祭典』の振付を依頼される。この芸術祭では他にピエール・ブーレーズのミュージカルやサミュエル・ベケット、ウジーヌ・イオネスコの芝居などもとり行われた。

1966年、"The language of Dance"出版
     (『マリー・ヴィーグマン 舞踏の表現』河井富美恵・林悦子訳大修館(1976年)

 【参考文献】

 『モダンダンスの歴史 』 海野弘(著)

  『真理の山―アスコーナ対抗文化年代記』 マーチン・グリーン(Martin Green)著
 マリー・ヴィーグマンの自伝ではないので、彼女の戦後の活動については詳しくない。

 『踊る身体の詩学―モデルネの舞踊表象 』 山口庸子著  

 『メリー・ヴィグマンの芸術と思想』 

 【マリー・ヴィグマンの著書】

 『舞踊の表現 (1976年) 』 マリー・ヴィグマン(著) 河合冨美恵・林悦子(訳) 大修館書店(1976)

 

 

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