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【略歴】
1886年6月8日、ウェストファリアのヘメルで製紙業を営む家に生まれる。25才までにウィーンで哲学と美術史の学位を取得した後ロンドンで2年間、音楽の学習と声楽訓練を行う。20代後半になって医療に転向し、精神医学の学習をはじめる。(ロジャー・カーディナルによると、ハイデルベルク以前に彼はエミール・ノルデら表現主義者とのつきあいがあったという。) 第一次世界大変では軍の外科医を務め、懲役から戻った1918年、ハイデルベルク大学に付属する精神病院に助手として働きはじめる。院長のカール・ウィルマンは彼自身がすでに始めていた患者の描いた絵画のコレクションを拡張して分析することをプリンツホルンに勧めた。ここでプリンツホルンが行った収集と分析活動が、1922年に出版された『精神病者の芸術性』となって実を結ぶ。この著書はおもに、哲学者のルートヴィヒ・クラーゲ、精神科医のオイゲン・ブロイラー(1857−1939)、美術史家のコンラッド・フィードラー(1841−1895)の影響を汲んでつくられたものだ。
彼は1920年代初頭にハイデルベルクを離れて、ドレスデン近郊にあるヴァイサー・ヒルシュのサナトリウムで働く。以前より舞踏に大変興味を抱いており、このときドレスデンに在住したマリー・ヴィーグマンと知り合い、同棲生活をおくる。(*) その後フランクフルトに移り、サイコセラピストとして働くかたわら、精神医学や精神分析、サイコセラピーなど関して執筆活動を行う。1926年には前作に関連する『囚人の芸術』を出版、以降亡くなるまでの7年間に13作品を出版している。彼はフリードリッヒ・ニーチェを崇敬し、ルートヴィヒ・クラーゲスの生命中心的な考えに強い影響を受けていた。クラーゲスの思想には、不合理で無意識の生命力を、人間の弱々しい知性と意志を越えた知恵の先触れとして称える傾向があったが、それは彼の同時代の心理学に蔓延していた多くの還元主義、実証主義、行動主義に真っ向から対立するものだった。
1929年、はじめてアメリカ合衆国を旅行。米国人の弟子デイヴィッド・ワトソンはプリンツホルンがアメリカの聴衆に与えた印象について旅行記を出版している。彼はエール大学の心理学学会に出席し、デューク大学、ウィスコンシン大学、アンティオークカレッジ及びワシントンDCの聖エリザベス病院で講義をしている。彼の講義の一つは「ニーチェと二十世紀」であった。その後彼はワイマール共和国の芸術家や政治家たちと付き合いながら、師とあおぐクラーゲスの教えを説いたり、詩作を行ったり、D・H・ローレンスやアンドレ・ジードの翻訳を行ったりしていた。
その後、精神障害者の芸術に関する本としては、ヘルマン・メーベスに関する詳細な考察を計画していたが、結局具体化せずに、1933年チフスで死亡する。
以上、 "ARTISTRY OF THE
MENTALLY ILL 1995 REPRINT"の英訳に向けてのIntroductionより。この本をアマゾンで買うならこちらへ
(*):『真理の山―アスコーナ対抗文化年代記 』 マーチン・グリーン(Martin
Green)著
プリンツホルンに言及した邦書・訳書は以下のとおり。
『病跡研究集成―創造と表現の精神病理』
宮本忠雄著
『真実のゴッホ―ある精神科医の考察』 マンフレ−ト・イン・デア・ベ−ク(著) 徳田良仁(訳)
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