エミール・ノルデ (Emil Nolde)
シュレスヴィヒ(独) 1867年生 ― 1957年没

 1867年、フリースランドのデンマークとの国境に近いシュレスヴィヒで、伝統的な農業を営む信心深いプロテスタントの両親の間に生まれる。幼少期より他の兄弟と異なりドローイングや粘土づくりを好んだ。
 1884年よりフレンスブルクの家具工場で木彫の徒弟として4年間修行した後、各地を転々とし、1892年にザンクトガレンで工芸博物館の教師の職に落ち着く。93年頃から絵葉書の創作をはじめたところ、これが成功。1896年に雑誌『ユーゲント』の発行主が彼の絵葉書に惚れ込んだことでミュンヘンに移り、私立のアカデミーに通う。1899年にパリで9ヶ月暮らした後コペンハーゲンに移り、アダ・ヴィルスドルプと出会い結婚。
 1903年に北海のアルゼン島、1904年にベルリンに移り住むが妻のアダが身体をこわしたため、イタリアのタオルミーナやイスキアで静養。1905年に北ドイツに戻り、アダがいくつかの施療院を出入りする間、彼はアルゼン島のうらびれた漁師の小屋に棲み、創作に励んだ。
 ドレスデンの『ブリュッケ』の若い画家たちがノルデの北方的な激しい色調に共感をおぼえ、メンバーとして迎えたい旨の書簡を送ったところ、ノルデはこれを承諾、1907年にドレスデンに移る。(ノルデは尊敬するエドヴァルド・ムンクに『ブリュッケ』に入らないかと誘いの声をかけたが拒否されている。) 社交性に欠けるノルデはしばらくして『ブリュッケ』を脱退するが、この頃より「いかなる手本もなければ明快な構想もない」類まれなる幻想絵画を描きはじめる。
 一方ドイツ画壇の大物でユダヤ人のマックス・リーバーマンに対して民族主義的で人種偏見に充ちた書簡を送りつけたことでベルリン・ゼセッションを除名される。その後も激しい表現主義的なタッチで連作「踊り子」などを描きつづけた。(1912年頃、マリー・ヴィーグマンが彼のモデルとなっている)
 
 1913年、ドイツ帝国植民地省より南太平洋のドイツ領における住民の人種的特性を調べるように依頼を受け、中国や日本、フィリピン、パラオを経てニューギニアのドイツ領、ラバウル島などを巡る。
 その後も移動の多い生活を続けながら絵画制作を重ね、次第にドイツ国内で高い評価を得る。1920年に彼の故郷シュレスヴィヒはデンマーク領になり、かねてからの強い民族主義もあってヒトラーと同時期に国家社会主義ドイツ労働党に入党している。
 1927年にはドレスデンを皮切りに大々的な回顧展が各地で開かれ、31年にはプロイセンのアカデミー会員となるが、1933年にナチス政権が樹立されるとともにノルデの運命に暗雲が立ち込める。ローゼンベルクやナウムブルクが『ブリュッケ』に代表される表現主義的な美術を徹底して嫌ったのだ。(ナチス内部でも美学をめぐって様々な意見対立があった。ゲッペルスはノルデの絵画を北方的だと高く評価、ローゼンベルクと近代美術に対する見解をめぐって激しく論争したが、ヒトラーがローゼンベルク側についたため、無益な争いを避けて態度を改めた。)
 1937年には1000点以上にのぼる彼の作品がドイツ内の美術館から撤去され、そのうち48点がミュンヘンの『頽廃芸術展』で晒しものになる。予定されていた彼の70歳の誕生日を祝う公式祝賀会も急遽中止された。さらに1941年には「制作禁止」の通達さえ下された。彼はアトリエの奥に設置した小部屋にこもり、終戦の日まで20センチ四方の和紙に水彩画を描き続けたという。そこには「描かれざる絵」という題名が添えられていた。

ノルデについてもっと知りたい方は、以下の書籍をお求めください。

『エミール・ノルデ』 ヴェルナー・ハフトマン (著), 宝木 範義 (訳)

"Emil Nolde: Unpainted Pictures " Thomas Knubben著 

 【楽天】でエミール・ノルデの作品集を買う。


<<HOME  <<関連人名事典INDEX
<<関連年表 <<アウトサイダーアートのある場所 <<参考文献  <<本を探す
ご意見・ご感想は travis7jp@yahoo.co.jp