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1910年生まれ。 『夜明け前』の島崎藤村は母方の大叔父、「41歳寿命説」を唱えた食生態学者の西丸震哉(1923年生)は実弟である。
1936年に東京大学医学部を卒業後、都立松沢病院の医員、東大・東京女子医学専門学校の講師を務める。 1952年、草間彌生(当時22歳)を見出して日本精神医学会に作品に関する論文を寄稿。信州大・愛知医科大学で教授を歴任。24版を数える『精神医学入門』ほか多数の著書・訳書がある。ハンス・ベルメールの愛人で狂気に苛まれて自殺したウニカ・チュルンの作品を翻訳していることでも知られる。
2002年2月14日に他界。
【著作】
『彷徨記―狂気を担って 』 批評社 (1991/05)
自伝的に綴った作品で、東京裁判で東条英機の頭をぽかりとやった大川周明や「自殺する」と公言していた患者の女性を誤って自殺させてしまった話、ロボトミー手術の実施についても語っている。
『精神医学入門 』 南山堂
『異常性格の世界 』 創元社 (1985/12)
「変な絵」と称して知的障害者の描いた絵を紹介しており、中にはアウトサイダーアートでおなじみの構図も見られる。
『狂気の価値 』 朝日新聞社出版局 (1979/01)
日本語の「くるい」という語は、元来は廻ることであって、くるま、くるくる、くるめく、くるわ、枢(くるる)、くりかえす、くるみ、くりなどの「くる」と相通じ、胡桃(くるみ)、栗はくるくる転がるからそう名づけられたのである。(中略)
フランス語では、狂にあたる語としてfou, folie,があるが、これはラテン語のfolis(風袋)から出たものであって、風船が風に吹かれてふらふら動き廻る意味である。偶然の発音の一致である中国語のフー、すなわち風も狂気のことで、風疾、瘋(ふう)とすれば、なおさら狂の意味になる。風袋は中が空虚で、頭が空であるとか目に見えない風が出るだけであって、無価値な意味になるが、老子によれば風袋の空虚、無は無限の生産者であって、鍛冶屋の鞴(ふいご)のように中は空でもいくらも風が出てきて火を燃やすもととなるのであり、空、虚無に大きな価値を認める。
……アンドレ・ブルトンが精神科医であり、シュルレアリスム詩人たちがオートマチスムやアナグラムに強い興味を抱いたように、近代・現代文学と狂気は実に親しい。韻を意識した文学的な遊びを自ら実践しながら狂気の価値を説いている点が、西丸四方の素晴らしいところです。
『やさしい精神医学
ジャスミンおとこ―分裂病女性の体験の記録 ウニカ・チュルン(著)みすず書房
新装版
『ヘンダリン―病跡学的考察 』 ランゲ・アイヒバウム (著)みすず書房
ほかにもクレペリンやヤスパース、クルト・シュナイダー、C.G.ユングの著作について訳書あり。
なお、現代文学と狂気の関係について、哲学者ミシェル・フーコーが興味深いことを述べています。
「われわれの歴史によってその両立不可能性が打ち立てられてきた(狂気の言語活動と文学の言語活動という)二つの言語活動が通じ合うことを見て驚くのは今日のわれわれなのである。…(中略)
(中略)…狂気と精神疾患は同じ人間学的な統一性への帰属を崩しつつあるのだ。この統一性は、それ自体、過渡的な公準としての人間とともに消えつつあるのである。病の叙事詩的な輝きである狂気は、消え失せることをやめはしない。そして、病理性からは遠く、言語活動の方で、言葉がまだなにも言わずに退き折り込まれる場所では、私たちの思考にかかわる、ひとつの経験が生まれつつある。その経験の間近さは、すでに可視的であるにせよ絶対的に空虚であり、まだ名づけられえないのだ」
以上、 『ミシェル・フーコー思考集成〈2〉文学・言語・エピステモロジー
』 「25 狂気、作品の不在」 より
科学としての精神医学、心理学の進展とともに、過渡的な公準たる「人間」が消えつつあるなか、まだ名づけられ得ない文学に、われわれの思考にかかわる経験が生まれることを期待しているのでしょうか。
同じく 『ミシェル・フーコー思考集成〈2〉文学・言語・エピステモロジー
』 30「哲学と心理学」では、次のように述べています。
「現代文学は、精神分析のみならず狂気に属するあらゆる現象によって魅惑されています。というのも、狂気とは今、現在の世界において、ひとつのメッセージ、とは言えないとしても、少なくともそこに何らかの意味を期待できるようななにがしかの言語、記号でないとしたら一体何でしょう。もっとも、そうした期待が持たれるのは、もしそうでなければあまりにいたたまれないであろうからであって、ひとはそれらが何を意味しているのかも知らずどのようにしてその意味するところを語るのかも知らない。したがって、狂気を、みずからの解読のための鍵をみずからのうちに持つようなひとつのメッセージとして扱わなければならない。
…(中略)
彼は、 「文学と狂気とが対をなすようなひとつの構造」があると述べます。それは「文学や狂気についての記号学が可能であるためにはそれらの釈義が不可欠であり、逆にそれらの釈義が可能であるためにはそれらの記号学が不可欠である」というような構造ですが、釈義と記号学の帰属関係は、じゅうぶんに解明することがあり得ないと言います。1950年代までに、人は精神分析や文学批評において、「解釈」と呼べるものが問題になっていることにうっすらと気づきましたが、その後、そこに「諸記号の構造そのものの分析」という側面があるということに気づきました。とはいえ、その結果、かえって、解釈の側面が隠蔽されてると言います。そして、「包み込み、巻き付きの構造こそが、狂気の言語と文学の言語とをともに特徴づけ」ており、それゆえ、「心理学化されているのは人間諸科学ばかりではなく、文学批評と文学もやはり心理学化されている」と結んでいます。
これは、日本の1980年代以降における、いわゆる「社会の心理学化」を先取りした発言のように思えて、あらためてミシェル・フーコーの偉大さに気づかされます。
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