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『葬送行進曲』(1897年)
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エドヴァルド・ムンクはいわゆるアウトサイダーアートの作家ではない。しかし、彼には統合失調症で入院した経緯があり、一部の作品にアウトサイダー・アートと共通する統合失調の影響あるいは極度の不安が投影しているという見方がある。また、Henrik
Bering による"Edvard Munch: Behind the Scream"の書評によると、ムンクは1898年頃、パリの精神科医で美術評論家、劇作家としても活躍していたマルセル・レジャの肖像画を木版画で制作している。レジャは『狂人の芸術』(L'Art
chez les fous,1907)の著者である。肖像画を描いてもらったレジャは当時のフランスの美術批評誌でムンクをゴヤやブレイクに匹敵する画家として賞賛したという。
以上のことから、藝術と狂気の関係史を語る上で欠かせない人物のひとりとしてここに紹介する。
【略歴】
1863年、ノルウェーのリョーテンにて、クリスチャン・ムンク医師と妻ラウラ・カトリーネの第2子として生まれる。父方の伯父、ペーター・アンドレアス・ムンクは19世紀の有名な歴史家だった。
エドヴァルドには姉ソフィエと二人の妹(ラウラ、インゲル)、弟アンドレアスがいた。翌年、家族でクラスチャニア(現在のオスロ)に移り住む。
1868年、母親が結核で死亡。父親は大きなショックを受け、その後、宗教に走り、しばしば錯乱状態となった。
1877年には1歳上の姉ソフィエが15歳で同じく結核にかかって死亡する。『病める子』(第1バージョン,1885-6年:オスロ国立美術館蔵)は病で苦しむソフィエを描いたといわれている。
1880年、画家になることを決意し、翌81年8月からオスロの王立美術工芸学校に通学。彫刻家のユリウス・ミッデルトン、後にクリスチャン・クローグに師事する。
1884年頃から作家ハンス・イェーガー(1854-1910)や画家カール・イェンセン=イェル(1862-1888)などのボヘミアン文化人と交流をはじめる。彼らは個人主義とアナーキズムを信奉する急進的なグループだった。
1885年にはアントワープ万国博覧会に出品。パリを訪れ、マネの絵に傾倒。85年には『病める子』『そのあくる日』などの制作を始める。
1886年10月、オスロ秋季展に『病める子』を出品し、酷評される。
1889年、大きな転機となる年で、重病を患ったあと伝統的手法で『春』を描いて技量が認められ、オスロで110点からなる初の個展を開く。政府奨学金を得てパリのレオン・ボナ画塾に入学。夏はオースゴールストランに滞在(以後、夏はよくこの地で過ごす)。11月に父親が死亡。パリ郊外のサン・クルーに移り住む。
1890年春、「サン・クルー宣言」なる手記を起稿。「わたしは死者たちを道連れに生きている。わたしの母、姉、祖父、父……特に父とはいつも一緒だ」と書く。スーラの点描に影響された新印象派的なスタイルで絵を描くようになる。続いてゴーギャンに傾倒し、アール・ヌーヴォー(ドイツではユーゲントシュティール)の装飾的な構図と色面を取り入れる。11月にリューマチ熱となり、2か月入院。
1892年、『カール・ヨハン通りの夕べ』(Rasmus Meyer Collection.Bergen)を描く。11月にベルリンで展覧会を開くが、保守的な画壇から排撃され、1週間で閉鎖。なお、このとき彼を擁護した少数派のひとりに、マックス・リーバーマンがいた。この頃よりベルリンのレストラン『黒い小豚』に出入りし、スウェーデンの作家でオカルト研究でも知られるストリンドベリイほか北ヨーロッパの文学者と交流。彼らの神秘主義的で秘教的な世紀末思想に強い影響を受ける。
1893年、コペンハーゲン、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで展覧会。『叫び』(*1)『声』(ボストン美術館蔵)を描くほか連作「生命のフリーズ」の制作。翌94年に『思春期』『灰』『そのあくる日』(すべてオスロ国立美術館蔵)を手がける。
1895年、パリを2回訪れ、ロートレックやボナールの影響を受ける。『月光』(オスロ国立美術館蔵)を描く。弟アンドレアス死亡。翌年にかけて《生命のフリーズ》に含まれる代表作『マドンナ』(オスロ国立美術館蔵、バリエーションがいくつかあり)『女の3相』などを描く。
1896年、木版画と着彩リトグラフの印刷。パリでアンデパンダン展に出品。アウグスト・ストリンドベリの肖像画を制作(*2)。翌97年、オスロでの展覧会が好評を博す。98年、オースゴールストランでトゥラ・ラルセンと知り合う。
1900年、スイスのサナトリウムに入所。《生命のフリーズ》が完成する。
1902年、後にムンク研究で有名になるマックス・リンデ博士と知り合う。「生命のフリーズ」の全作品をベルリン分離派展に出品。トゥラ・ラルセンとの別れの際に銃の暴発によって左手の薬指を失う。
1904年、ベルリンのカッシラー画廊がドイツにおけるムンクの版画の専売権を取得、ハンブルクのコメッター画廊が油彩の専売権を取得。ウィーン分離派展、パリのアンデパンダン展に出品。コペンハーゲンで展覧会。翌年にかけてアルコール依存症に陥り、いくつかの暴力事件を引き起こす。
1906年、ベルリン室内劇場でイプセンの『幽霊』『ヘッダ・ガブレル』の舞台装置をデザイン。翌07年、カッシラー画廊でセザンヌ、マティスと共同展覧会。エミール・ノルデと知り合う。
1908年、秋にコペンハーゲンで統合失調症を発病し、半年間入院。ノルウェー王室聖オブラ勲章叙勲。
1909年よりオスロ大学大講堂の壁画《アウラ装飾》の制作に取り掛かる。翌10年にかけて《アウラ装飾》の『太陽』『泉』『新しい光』などを手がける。1910年10月にはオスロで大規模な展覧会が開かれる。
1911〜16年にかけて《アウラ装飾》の『アルマ・マーテル』『歴史』『人間の山』などを手がける。
1912年、ケルン分離派展に32点の油彩を出品してゴッホ、ゴーギャン、セザンヌに並ぶと称賛される。
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『人間の山』 (習作)
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1920年、詩人のライナー・マリア・リルケ(1875-1926)はオスカー・ココシュカについての評論を依頼され、断りの手紙に「ムンクの描く線は恐怖というものの構築的な力を備えています。彼はココシュカより遥かに自然そのものに近い人物なので、絵やイメージに転化することで維持と破壊という矛盾の危機を解消できたのです」と書いている。
1922年、オスロのフレイア・チョコレート工場社員食堂に12点の油彩を描く。翌23年、ドイツの美術アカデミーの会員となる。
1926年、ドイツ各地、コペンハーゲンで展覧会。妹ラウラが死亡。翌27年、ドイツとオスロの国立美術館で大規模な回顧展が開かれる。
1930年頃から眼疾により制作が難しくなる。
1937年、ドイツ国内の美術館が所蔵するムンク作品82点が「頽廃芸術」に指定され(→頽廃芸術展)、撤去・売却される。
1943年、80歳の誕生日に多くの祝辞が寄せられる。大寒波の襲来で風邪をこじらせ、翌44年1月23日、エーケリィにて永眠。
1963年、生誕100年を記念してオスロにムンク美術館が設立される。
(*1) 『叫び』は1893年バージョン(オスロ国立美術館蔵)のほかおよそ50点がある。
(*2) ストリンドベリは1896年6月、『ルヴュ・ブランシュ』にムンクについての散文詩を寄せている。『エドヴァルド・ムンク 』(J.P.
ホーディン著)より一部引用する。
「エドヴァルド・ムンク、32歳。愛、嫉妬、死、悲哀を描く奥義を極めたこの画家は、しばしば頭一つにつきしかるべき歩合で働く死刑執行人のような、悪知恵を非人間的に行使する絞首刑執行人もどきの批評家から、誤解を招く故意の悪評を受け、その犠牲となっていた。(中略) ムンクの絵をうまく説明するには、音楽の伴奏が必要だ、とは誰かの言ったことである。おそらくその通りであろう。しかし、われわれが作曲家を待つ間に、私がスウェーデンボリの幻想――『夫婦愛における英知の喜び』と、『官能愛の愚かな快楽』――を思い起こす彼の絵を称える歌をうたおう。
《接吻》 二人が一つに融けあっており、鯛のような形をした一方が、猛獣、微生物、吸血鬼、女などの流儀で大きい方を飲み込もうとするかのように見える。あるいは、男がよび醒そうとする幻想は、そのまま女から戻されてくる。男はその魂、血、自由、心の平和、幸福を犠牲にすることで与えられる人間の特権を乞うのだ。いったい何と引きかえに。彼の魂、血、自由、心の平和、幸福という至福を犠牲として。
《赤い髪》(吸血鬼) 邪悪な心の前にひざまづき、ピンで刺し殺されるのを熱望する不運な生き物の上に、黄金の雨をふりかける。大地に縛りつけ、苦悩を縛りつける黄金の繊維。血の雨は悲哀を、愛されることと同時に愛することの神聖なる悲哀を探し求める呪われた男の頭の上に凄まじくふりかかる。

接吻 1895年
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吸血鬼 1893年
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――この後も《嫉妬》 《受胎》(マドンナ) 《叫び》 《黄昏》 《嵐の夜》といったムンクの作品について賛歌を綴っている。ムンクはリトグラフでストリンドベリの肖像画をつくったが、そのときのエピソードが面白い。ムンクがストリンドベリのスペルを書き間違えたところ、ストリンドベリは馬鹿にされたと思ったのか次の会合のときに拳銃をテーブルに置いて訂正を求めた。ムンクはストリンドベリについて「彼は被害妄想で、しかも地球が球体ではなく平面で、星は天井に開いた孔だと信じていた」と書いている。ストリンドベリは、ムンクが自分を呪文で殺そうとしていると思い込んでいたそうだ。
なお、精神医学を学んだ後に哲学者となったカール・ヤスパースは、著書『ストリンドベリとヴァン・ゴッホ』で、ストリンドベリを対象にして精神病理学的分析を試みている。
経済学者であると同時にユング派心理学者で日本ユング研究会会長でもある林道義は、著書『ユングと学ぶ名画と名曲 』で、ムンクを取り上げ、愛する母や姉を少年時代に失った経験と彼の精神疾患、元型イメージとしての大地母神を軸にして作品の分析を試みています。
【参考文献】
『エドヴァルド・ムンク 』 ウルリッヒ
ビショフ (著) タッシェンジャパン (2002/04)
『エドヴァルド・ムンク 』 J.P.
ホーディン (著), 湊 典子 (翻訳) PARCO出版局 (1986/05)
『ユングと学ぶ名画と名曲 』 林道義(著)
朝日新聞社 (2003/04)
Edvard
Munch: Behind the Scream
Sue Prideaux (著) Yale Univ Pr (2005/10/28)
Munch
Revisited: Edvard Munch and the Art of Today Kerber
Christof Verlag (2005/11/2)
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