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【略歴】
ベルリン分離派の創立者の一人で、常にその主導的立場にあり、ドイツ印象主義の代表としてドイツ画壇に君臨した。 エドヴァルド・ムンクを擁護するなど、表現主義的傾向に一定の理解を示したものの、めまぐるしい近代美術の新しい動向についてゆけず、ベルリン・ナショナルギャラリーの進歩的な館長、ルートヴィッヒ・ユスティがゴッホの絵画の購入を決定した際には、「ゴッホは天才であるがそのデモニッシュな情熱のために完成度の高い作品をつくるに至っていない。ドイツが1ペニヒといえども倹約に努めているときに法外な価格で購入するとは何事か」と噛みついている。
1932年までプロイセン芸術院の総裁をつとめ、その後も名誉総裁となった。プール・ル・メリット勲章を受け、ベルリン名誉市民に推挙された。しかし、1933年にナチス政権が樹立したことにより、ユダヤ人であった彼は芸術院名誉総裁の地位の返上を強要され、1935年、失意のうちに死亡する。
参考文献: 『ヒトラーと退廃芸術―「退廃芸術展」と「大ドイツ芸術展」 』 関楠生 河出書房新社
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