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オスカー・ココシュカ (Oskar Kokoschka)
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1886年 - 1980年
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| 1886年、ペヒルラン生まれ。父親はプラハの有名な金細工師の一族の出身、母親は「千里眼」の持ち主を自認するスティリアの山岳地方出身で、彼は4人兄弟の次男だった。 ココシュカ自身は化学を学びたかったが、彼の素質を見込んだ教師の強い勧めによりウィーン美術工芸学校の奨学生となる。1905年に同校入学。2年後には早くもウィーン工房で仕事にありつくが、この頃より文学活動にも強い関心を抱き『スフィンクスと案山子』『殺人者、女たちの望み』という2編の戯曲を書く。(ドイツにおける表現主義演劇は彼にはじまると言われている。) 1908年にウィーンの前衛芸術家が中心となって開催された「クンストシャウ」に出品した作品が論議の的となり、ココシュカは工芸学校を追放される。翌年の「クンストシャウ」では、付設された野外劇場で彼の2つの戯曲が上演されて大きなセンセーションを呼んだため、ウィーン工房の仕事も干される。当時は観光客相手に酒の飲み比べをして食っていたという。そんな彼を支援したのは近代建築家のアドルフ・ロースだった。 彼に運がめぐってきたのは1910年のこと。ベルリンへ行き『ディア・シュトルム』の表紙画の仕事を手がける。翌年ウィーンに戻り、自分を放逐した美術工芸学校の教官助手をつとめるかたわら、ウィーン社交界を牛耳り芸術界に睨みをきかせていたアルマ・マーラーと恋愛関係を結ぶ。 1914年に第1次世界大戦がはじまると、アドルフ・ロースのはからいで竜騎兵連隊の中尉に任命されるが、翌年ガリシア戦線で脳と肺に重症を負い、一時は捕虜となった。 脳の治療のためドレスデンに落ち着くが、肉体的にも精神的にも打ちひしがれた彼は、細かい部分まで人間そっくりの人形を注文、一緒にオペラへ行くなど奇行が目立った。 十分な静養のとったココシュカは1919年から24年にかけてドレスデン・アカデミーで教授をつとめる。その後ミュンヘンに移り、さらには北アフリカや中東を旅行し、絵画を制作する生活を送る。 1933年、ナチスがドイツの政権を握ると、彼はこれを嫌ってプラハへ行き、チェコの市民権を得る。ウィーンでのココシュカの評判は相変わらず高く、美術工芸学校の校長に招かれる話もあり、1937年にはオーストリア美術産業博物館で回顧展が開かれたが、同じ年ミュンヘンで開かれた『頽廃芸術展』に彼の作品が展示され、ドイツ国内にあった400点もの作品が撤去された。1938年のミュンヘン合意の際、彼はチェコからイギリスに逃亡する。 戦後、1947年にイギリスの市民権を取得するが、53年にレマン湖畔のヴィルヌーヴに移り、亡くなるまでその地に住みつづけた。1953/54年に『エドワルド・ムンクの表現主義』(Edvard Munch's Expressionism)を刊行。 ![]() ココシュカ版画カタログ Oskar Kokoschka (Art & Design S.) Kokoschka and Alma Mahler: Testimony to a Passionate Relationship (Pegasus Library S.) Alfred Weidinger Oskar Kokoschka Drawings, 1906-1965 |
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