ハンス・ベルメール (Hans Bellmer)
カトヴィッツ 1902年3月13日 - 1975年2月23日

【略歴】
 1902年、シュレジアのカトヴィッツ(当時はドイツ帝国領)に生まれた。1920年から22年にかけて、暴君タイプのエンジニアだった父親に強制され、大学に入る前に製鉄所や炭鉱で働く。
 1923年、ベルリン工科大学に入学。翌24年、ゲオルグ・グロッスやオットー・ディックス、ジョン・ハートフィールドと知り合う。ハートフィールドの紹介でダダイストのヴィーラント・ヘルツフェルトが経営するマリク出版で植字工として働く一方、グロッスの勧めによりドローイングを始める。
 1926年 ベルリン郊外に工業広告デザインの事務所を開く。
 1928年、マルグレーテ・シュネルと結婚。
 1933年――ナチスが政権を握った年――マックス・ラインハルト演出の『ホフマン物語』を観劇し、その中の1編『砂男』に登場した人形の娘オリンピアに魅了され、秋から人形制作に着手する。
 1934年、写真集『人形』を自費出版。
 1935年2月、パリに1か月ほど滞在してアンドレ・ブルトン、ポール・エリュアールらと会う。シュルレアリスム・グループ展にデッサンを出品。ベルリンのカイザー・フリードリヒ美術館でデューラー派の球体関節を見て深い印象をおぼえる。シュルレアリスム雑誌『ミノトール』第6号に写真が掲載され、翌36年にはロベール・ヴァランセ仏訳によりG.L.M社から『人形』が出版。
 1937年、弟フリッツと共に再び人形を制作すると共に『球体関節についての覚書』を執筆。
 1938年2月にマルガレーテが結核で亡くなり、ドイツを離れてパリに移住。マックス・エルンスト、ハンス・アルプ、マルセル・デュシャン、イヴ・タンギーらと知り合う。33年から付き合いのあるエリュアールとは特に親しくし、自作の人形の写真にエリュアールの詩『人形遊び』を添えて写真集を出す計画を立てた(実現されたのは1949年)。
 1939年、独仏戦争が始まると、エルンストと共にエクス・アン・プロヴァンスに近いミルの収容所に抑留され、煉瓦工場で強制労働に従事する。翌40年に休戦協定によって解放され、南仏カストルに身をおく。
 1942年、当地でマルセル・シュテールと再婚し、翌43年に双子の娘(ドリアンヌとベアトリス)をもうける。
 1946年、ブルガリア出身の詩人ノラ・ミトラニと出会う。ジョルジュ・バタイユの小説『眼球譚』の挿画とする銅版画に着手。 翌47年、ギャルリー・デュ・リュクサンブールで個展を開く。マーグ画廊の「国際シュルレアリスム展」に出品。マルセルと離婚。『眼球譚』刊行。
 1949年、パリのムフタール街88番地に移り住む。11月『人形遊び』刊行。 翌50年、マルキ・ド・サド『ジュスティーヌ、あるいは美徳の不幸』に銅版画の扉絵を寄せる。
 1953年、ベルリンのシュプリンガー画廊での個展会場でウニカ・チュルンと出会い、翌年からパリで同棲を始める。
 1955年、バタイユ『マダム・エドワルダ』のために銅版画を制作(出版は1965年)。
 1956年、ジョイス・マンスール『ジュール・セザール』刊行(銅版画5点)。
 1957年、 『イマージュの解剖学』刊行。
 1958年、ウニカをモデルにして緊縛写真を撮影。
 1959年、ゾンネンシュターンの色鉛筆画を12月から始まるパリのシュルレアリスム国際展に展示するため奔走。
 1961年、 『サド頌』刊行(銅版画10点)。
 1968年 『道徳小論』刊行(銅版画10点)。
 1969年 ハインリヒ・フォン・クライスト の『マリオネット』刊行(銅版画11点)。コルマールに滞在後、パリに帰ったところ脳卒中で倒れ半身不随となる。翌70年10月にチュルンが投身自殺。
 1971年 11月〜翌1月にかけてパリの国立現代美術センターで回顧展が開かれる。
 1975年 2月23日に他界(享年72歳)。遺体は遺言によりチュルンの墓に埋葬された。


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